高原の牧場で馬との共生を学ぶ―熊本県阿蘇市

牧場のある阿蘇外輪山の上から見たカルデラ内部の朝の風景。中央の市街地が阿蘇市中心部
牧場のある阿蘇外輪山の上から見たカルデラ内部の朝の風景。中央の市街地が阿蘇市中心部

 熊本県の北東部にある阿蘇市は、外輪山を含む阿蘇カルデラの北半分を占め、市域は東西30キロ、南北17キロに広がり、総面積は約376平方キロに及ぶ。市の地形は複雑で、最高標高地は阿蘇五岳(阿蘇山の中核を構成する5峰)の根子岳で1433メートル、カルデラの外周をなす阿蘇外輪山地域が標高800~1000メートル、カルデラ中央の盆地である阿蘇谷は標高450~550メートルと起伏が激しい。

 また、市の大部分は「阿蘇くじゅう国立公園」に指定され、豊かな自然に恵まれている。カルデラの内部は古代から人の営みがあり、縄文時代末期には北九州から稲作文化が伝わっていたとみられている。

 阿蘇地域の自然環境で最も特徴的なのは広大な草原だが、これは決して自然のままの草地ではない。毎春に野焼きをすることによって低木の成長を妨げ、草原がやぶや森林に変わることを防ぐ人為的に整備された環境だ。草原は火山性土壌を改良して優良な農地に変える肥料を産出するとともに、牛馬の放牧地にもなり、阿蘇の農業全体を支えてきた。こうした独特な農業文化が残されていることが世界的に評価され、2013年に阿蘇地域全体が世界農業遺産に認定された。

冷涼な気候を生かした農業

 阿蘇地域は年平均気温が13.2度と、熊本市の17.2度と比べ(データは気象庁HP)冷涼で、農業もその気候を生かしている。九州の稲作は、高温による白未熟粒発生に伴う玄米の品質低下が各地共通の課題で、暑さに強い高温登熟耐性品種を主に栽培する地域が多い。これに対し、冷涼な阿蘇地域は、東北や北陸と同じコシヒカリを安定した品質で生産することができる。しかも、標高の高い阿蘇地方は日中の寒暖の差により米の味が引き締まり、阿蘇平野部で生産される「阿蘇コシヒカリ」は、味の良さでも東北、北陸のコシヒカリに劣らない。

阿蘇平野の農地から噴煙を上げる阿蘇中岳を望む
阿蘇平野の農地から噴煙を上げる阿蘇中岳を望む

 野菜では、キャベツ、レタス、トマト、ほうれん草、高菜などが出荷されているが、特にトマトやレタスは冷涼な気候を利用し、温暖な九州他地域の端境期に供給することが可能だ。

 さらに、広大な草原を活用した肉用牛の生産や酪農も盛んで、肥育牛と繁殖牛を合わせて約2万頭以上の肉用牛が飼育されている。日本で飼養されている肉用牛は黒毛和種が中心だが、阿蘇の畜産業は在来品種の「あか牛」の生産が主体という特徴がある。あか牛は、一般に体質が強健で性格がおとなしく、寒さ・暑さに耐え、ほかの種類の肉牛より採食性に優れるため、草原での放牧に適している。

国の「牧草化」事業で牧畜が発展

 阿蘇の牧畜は、1966年に国営大規模草地改良事業がスタートし、阿蘇北外輪山上の広大な草地を牧草化することで、急速に拡大した。73年に同事業は完成、阿蘇は乳牛や肉用牛の大型生産基地となったが、その直後のオイルショックで飼料価格が高騰し、畜産農家全般の経営が苦しくなる。その後、乳価格の低迷や牛乳の生産調整で酪農の採算が悪化、さらに牛肉の輸入自由化で畜産も打撃を受けた。

 草原では今も牛馬がのんびり草を食べているが、阿蘇の酪農・牧畜は往時のような規模では行われていない。ただ、草原はもともと集落の入会地(共有地)として管理されてきたことから、現在も入会権を持つ人で結成する「牧野組合」の責任で維持され、牧畜以外にも観光業などで草原を利用し、観光資源として役立てている。

 そこで今回は、阿蘇の農業ではなく、草原利用の中でも「観光」に特化した牧場での研修を2021年12月に取材した。

阿蘇北外輪山の草原で放牧される「あか牛」
阿蘇北外輪山の草原で放牧される「あか牛」

東京ドーム32個分の広大な牧場

 研修の会場は、阿蘇北外輪山の上に位置する「夢・大地グリーンバレー」。国営大規模草地改良事業によって牧草地化された起伏の多い地形に、約150ヘクタール、東京ドームに換算すると32個分という広大な牧場が広がっている。

 ただし、この牧場で飼育されているのは、牛ではなく馬だ。

馬房につながれた馬。カメラを向けると、人懐こく顔を寄せてきた
馬房につながれた馬。カメラを向けると、人懐こく顔を寄せてきた

 夢・大地グリーンバレーを経営する梅木康裕さん(72)は、阿蘇外輪山の東側に隣接する大分県竹田市の生まれ。鹿児島県のホテルに勤務した後、南阿蘇村に移住して飲食店を始めた。

 移住先に阿蘇を選んだ理由は「独立して観光に関わる仕事をしたいと思い、どこで始めようかと九州の地図を見ていたら、阿蘇の外輪山に目が留まった」ことが理由だ。当初は牧畜に関わる考えはなく、趣味の乗馬のために馬を飼い始めただけだったが、やがて阿蘇市の北部外輪山上の牧草地を借り、観光農場を開業した。

 「土地を借りるとは言っても、阿蘇の草原はいまだに『入会地』ですから、入会権を持つ人一人ひとりにお願いして、納得してもらう必要がありました」と梅木さんは当時の苦労を語る。

 梅木さんが経営する観光牧場のこだわりは、飼育する馬に独自の調教を行うことだ。

 「人と馬が触れ合う上で、必要なことは相互の信頼関係です。馬が人間を信用するように育てれば、人間に危害を与えるようなことは絶対にありません」。

 その理念は、夢・大地グリーンバレーで馬をつないでいる馬房の形式で実証されている。

馬房につないだ馬にブラッシングをする研修生
馬房につないだ馬にブラッシングをする研修生

 写真でも分かるように、馬は馬房の入り口にお尻を向けている。「馬の真後ろに立ってはいけない」というのが通説で、他の牧場の馬房は、入り口に馬の頭を向けてつなぐ形式がほとんどだ。

 「顔の両側に目がついている馬の視界は約350度と言われています。見えない10度の部分が、ちょうどお尻の真後ろで、そこに危険を感じれば後ろ脚を蹴上げることもあります。だから、『馬の真後ろに立ってはいけない』というのは本当です。でも、馬に人間は危険ではない。だから、真後ろに人間が立っていても安全だと馬が思うようになれば、馬の真後ろに立っても蹴られることはないわけです」と梅木さんは説明してくれたが、馬から「人間は危険ではない」と100%の信頼を得るのは簡単ではないだろう。

 実は、この「馬との信頼関係を育てる」ことが、夢・大地グリーンバレーの最大の特色である「ホースセラピー」の要であり、今回の研修で学ぶべき最大のポイントになっている。

馬と人間の信頼関係を育てる

 梅木さんは、独自の調教法を「調」「伝」「褒」「感」という4つのキーワードで表現する。

 まず、「調」は「調べる」。馬を「観察」し、その気持ちを「推察」することを意味する。言葉を持たない馬の考えを察してやるということだ。

 「伝」は「伝える」。人間の側が「察している」ことを、馬に伝える。決して馬に何かを「教える」という立ち位置になってはならない。

「褒」は「褒める」。人間が伝えたいことを馬が理解したら、必ず褒めることで、人間と関係を作ることに喜びを感じてもらえるようにする。

 「感」は「感謝する」。褒めた後に、人間の側が馬に感謝の気持ちを伝えることで、相互の信頼関係を構築する。

馬房に馬を誘導する梅木さん。厩舎から出されると、自分から馬房に入っていく馬も多い
馬房に馬を誘導する梅木さん。厩舎から出されると、自分から馬房に入っていく馬も多い

 要するに、馬と人間を対等の関係に置いて、生き物としての尊厳を重んじながら、馬とのコミュニケーションを確立すれば「人間は馬にとって危険ではない」と理解してもらえるようになるということだ。この方法を実践すれば、子馬の頃から育てるだけでなく、大人になってから引き取った馬も、時間さえかければこうしたコミュニケーションが可能になるという。

 大人になって引き取った馬の中には、元競走馬もいる。競走馬で実績を残せば、種馬として高値で取り引きされるので、観光牧場に来るのは「勝てなかった」競走馬なのが現実だ。

 「競走馬はかわいそうな存在です。いうなれば『走る受験生』ですよね。常に競争にさらされ、勝てればいいですが、負ければ叱られ、たたかれたこともあるかも知れません。でも、そういう子でも、うちの牧場で手を掛ければ、人間を信用してくれるようになります」と、梅木さんは自信を見せる。競馬という人間の都合で作られたシステムに翻弄される馬たちが、梅木さんによってセラピーホースに再生される。実際、取材中に十数頭の馬を見たが、気の荒い様子を見せる馬は一頭もいなかった。

セラピーホースとのコミュニケーションを学ぶ

 夢・大地グリーンバレーは観光農場として乗馬体験サービスを提供しているが、九州一円だけでなく、大阪や首都圏から足を運ぶ常連客が多い。そうしたリピーターが何度も訪れる理由は、この牧場が育てた「人間を信用している」馬と触れ合うことで、癒される実感を得るからだろう。

 この牧場では、単なる乗馬体験ではなく、馬との触れ合いで人間が精神的な癒しを得る「ホースセラピー」を主要なサービスとしている。ただ、お客さんに乗ってもらう「セラピーホース」になるためには、人間を信用しているだけではなく、「騎乗者の指示(リーディング)に素直についてくる」「騎乗者が立てる音や周囲の騒音に動じない」「指示の変更などにも冷静に従う」などの特性を身につけなくてはならない。

 こうした訓練は非常に高度で、最低でも数年間は馬を扱った経験がないと実際に取り組むことができない。また、乗馬も馬に「ボス」と認識される必要があり、数回の騎乗で馬との万全のコミュニケーションは難しい。

 今回の研修は6泊7日と短期間のため、2人の参加者は馬の世話をすることで、コミュニケーションの方法を学ぶことを中心に活動した。

研修生に鞍の載せ方を指導する梅木直美さん(右)
研修生に鞍の載せ方を指導する梅木直美さん(右)

 「馬は極めてメンタルな動物で、精神面の不調は身体面の不調よりも大きな影響があります」と、梅木さんとともに牧場の運営に携わる夫人の直美さん(55)が説明してくれた。

 馬は本来、群れで活動する草食動物なので、群れに囲まれて安全な場所にいると安心する。「危険ではない」人間に囲まれていれば、群れの中にいるときと同じ安心を得られるわけだ。そのため、世話をするときも、常に「安心」のメッセージを送る必要がある。

 「ブラッシングをしながら、空いた手で馬をなでてあげるようにしてあげて」と研修参加者に直美さんがアドバイスをする。

 「母親が舌でなめることで、子馬も気持ちがいいと感じていますが、5本指の人間の手でなでられるというのは、それとはまた違った気持ちよさがあります。猫でも犬でも人間になでられるのが大好きです。まずは、体に触れることが動物とのコミュニケーションの第一歩です」と、直美さんが「触れ合い」の重要性を教えてくれた。ただ、馬は人間よりも大きな動物なので、恐怖を感じる人もいるはずだ。

 直美さんは「そこは馬の方が賢いから大丈夫です。大人の馬は、人間にすると5歳くらいの知能があります。ちゃんと相手を見分けていますから、まず触ってみてください」と促され、記者も馬の背から腹にかけてなでてみた。手入れの行き届いた馬の肌は柔らかで、何とも言えない温かさが伝わって来た。

丁寧に馬のブラッシングをする研修生
丁寧に馬のブラッシングをする研修生

 研修生はブラッシングとえさやりを終えた後、その日の乗馬体験に使われる馬には鞍(くら)を載せて準備をした。乗馬には、手綱の動きを伝えるハミを馬にかませる必要があるが、これは極めてデリケートな作業で、直美さんか梅木さんが担当していた。

 直美さんによると「ハミをかませる作業は、少なくとも数カ月は馬と触れた経験が必要です。今回の研修は1週間なので、そこまではお願いできません」ということだった。

 梅木さんと直美さんは、交代で乗馬体験のお客さんのエスコートに回るため、研修生は馬の世話が終わると、厩舎(きゅうしゃ)の清掃に向かった。

 厩舎は馬のねぐらで、夜の間に敷きワラが汚れる。そのため、それを取り除いた上で、床を掃除し、新しい敷きワラを敷き詰める作業が毎日必要になる。しかし、厩舎の床が不潔だと、馬がひづめの病気を発症する可能性があり、手を抜くことはできない。かなりの重労働で、慣れないと馬が入る1区画当たり1時間近くかかるが、2人の研修生は黙々と作業を続けた。

厩舎を掃除する研修生
厩舎を掃除する研修生

 観光牧場は、農業のような作物が成長する喜びや収穫の達成感は伴わない業種だ。しかし、この研修では動物との触れ合いの楽しさや言葉を持たない相手とのコミュニケーションによる癒しなどが得られ、それが畜産や牧畜に関心を持つ機会となることは間違いない。

梅木さんの人生に感銘

  2人の参加者に今回の研修に参加した経緯や今後の展望などを聞いた。

伊藤健雄さん(福岡市出身、23歳)

―プログラムへの参加のきっかけを教えてください。

 登録していた派遣会社から紹介されました。

―実際に現地で参加してみて、いかがでしょうか?

 最初は大きな馬が怖く感じましたが、ブラッシングなどで触れ合っているうちに恐怖感は消えました。今は馬の気持ちの変化も分かるような気がします。

―これからやっていきたいこと、展開していきたい方向性は?

 社会人としてのコミュニケーション能力を磨きたいです。今回の研修を通じて動物にも興味を持ちましたので、そうした方向性も考えています。

十鳥司充実さん(福岡市出身、42歳)

―プログラムへの参加のきっかけを教えてください。

 登録していた派遣会社から紹介されました。

―実際に現地で参加してみて、いかがでしょうか?

 動物と接した経験があまりなかったので、最初は馬とどう向き合えばいいのかが分かりませんでした。でも、数日経験して楽しくなりました。

―これからやっていきたいこと、展開していきたい方向性は?

 梅木さんの生き方に感銘を受けました。私も起業をしたいと考えています。阿蘇に住むのもいいなと思っています。

(了)

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