2017年に登録された世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」で国内外に知られる福岡県宗像市。玄界灘に面した同市は、アナゴや天然フグ、ヤリイカ、ブリなど海の幸に恵まれ、その中でも鐘崎漁港は県下有数の水揚げ量を誇る。海の幸だけではなく、いま当地で注目を浴びているのがブランド肉牛の「むなかた牛」だ。今回、この「むなかた牛」を生産する「すすき牧場」が実施した畜産業研修を取材した。研修には合計8人が参加。第1回が21年11月15日から21日まで(男性3人、女性2人)、第2回が12月13日から19日まで(男性1人、女性2人)というスケジュールで実施された。筆者が取材した第2回研修は、東京都、神奈川県、奈良県からの参加者だった。
「すすき牧場」と「むなかた牛」
取材は12月17日から18日の2日間。筆者が宗像に向かった17日はこの冬一番の寒気が流れ込んだ影響で、九州各地で冷え込み、福岡でも初雪が観測された。宗像に到着したお昼過ぎ、「すすき牧場」でも雪が舞っていた。
すすき牧場は、稲作農家だった薄(すすき)照康氏(現代表の薄一郎氏の父)が1947年に1頭の乳牛を飼育し、畜産をはじめたことが始まり。その後70年に肉牛(乳牛雄)の飼育を開始する。97年以降、国内産飼料を使った肉牛生産に取り組み、10年ほど前からブランド肉牛「むなかた牛」として展開している。今では、20ヘクタールの所有地に約2500頭の肉牛を肥育、「素牛生産~肥育~販売」に一貫して携わり、豊かで安全な食を提供する肉牛農場として広く認知されている。
この地域で安全で美味しい牛肉づくりにこだわる ~ 薄一郎代表に聞く
―ブランド牛「むなかた牛」のはじまりと、すすき牧場の牛生産の特長を教えてください。
1995年までは一般的な飼育方法でやっていました。ターニングポイントは97年です。96年以降、O157(腸管出血性大腸菌)の感染拡大や口蹄(こうてい)疫、BSE(牛海綿状脳症)、食品偽装といった牛肉に関わる問題が次々と起こり、安心して消費者に牛肉を食べてもらうために生産者として何ができるかということを考えて、生産から流通、消費までの過程を追跡する「トレーサビリティ」を徹底し、同時に牛が食べるもの全てをトレース(追跡)することを始めました。「消費者から見て生産者がわかる」ことになるトレーサビリティの公開、つまり「生産者の顔を消費者に見せる」ことがブランド化へのスタートになります。日本の畜産では、えさとして海外から輸入された飼料を利用するのが一般的ですが、差別化するために特定の産地の原料を利用できないかと考えました。
そのころ国内では米の消費が落ちて米が余る状態でした。田は治水の観点からも環境的な役割がありますし、田を守っていくためにも国内産の米を牛の飼料として活用することにしたのです。自家栽培した飼料原料(飼料米など)、生産・流通過程が明確な国内産飼料や食品副産物(おからや酒粕など)を牛に与え、我々独自のえさとして牛を育てたところ、消費者から「おいしい」という声が集まり、「このやり方で間違いがない」と確信しました。
そして生協を通じてこの牛肉を関東・関西に届け、固定客を持つまでになったのですが、肝心の地元ではこの牛の肉を食べることができていませんでした。「地元で食べることができないか」という声により、10年ほど前に「むなかた牛」というブランドを立ち上げて地元の消費者に届けるようになったのが「むなかた牛」のはじまりです。また、「地域でえさを作っていく」という取り組みを進めたことによって、地域との接点が増えることになりました。それまでは地域との繋がりはあまりありませんでした。しかし、地域でのえさづくりによって農家や行政との接点ができ、地域住民の方との対話やブランド化に一緒に取り組むなどのコミュニケーションが進み、少しずつですが「むなかた牛」が根付いていったと思います。地元の農家にすすき牧場が生産した堆肥を提供し、その作物をすすき牧場が飼料として使うといった「地域の循環」も生まれています。
―すすき牧場としての将来の夢は何でしょうか?
「地域の循環」によって、牛のえさをつくることをはじめ、地域でいろいろなものを調達できるようにしたいと思っています。近隣町の農家さんと知り合い、そこに堆肥を提供し、えさを作っていこうということで、行政やJAとともに仕組みづくりするなど、国産のえさの比率を上げていく取り組みも始めています。
また、日本の発酵文化を取り入れ、乳酸発酵させた飼料も作っています。昔からの知恵を生かしたいからです。また将来的には、牛のふんを使ったバイオマス発電によって地域でエネルギーをつくれないかと考えています。牛もこの地域で産ませたいですね。(こういう考えを直接に)特定のお客さんに伝えるための取り組みとして、産直やふるさと納税の返礼品提供の取り組みをしていますが、こういったことで「地域発のむなかた牛」としてもっと広めていきたいと考えています。
―今回の研修を通じて、研修参加者にどのようなことを学んでほしいとお考えですか?
ここに来るきっかけはいろいろだと思いますが、今までの経験を全部「ゼロ」にする必要はありません。畜産業には生産から販売までいろいろな面があります。今までの経験が無駄にならないよう、持っている経験をそのどこかで生かせるよう見方を変えて欲しいと思います。短い研修の中で学べるものはごくわずかだと思いますが、研修参加者の皆さんには、その中でも見方を変えて、この牧場を何か変えられないかという気持ちを持ってほしいですね。
インタビューの後、薄代表と昼食をともにする機会を得た。向かったのは宗像市の隣、福津市にある農園レストラン「A.PUTEC FLEGO(アプテカ フレーゴ)」。イタリア出身の男性シェフと店を切り盛りする福津市出身の女性のご夫妻が営むファーマーズレストランで、店舗は古民家をリノベーションしている。有機(オーガニック)農法によってご夫妻自らが栽培したイタリア野菜を使った料理が評判だ。このレストランの料理には、すすき牧場が育てた「むなかた牛」が使われており、また夫妻が育てる評判の野菜にはすすき牧場が自家生産している「堆肥」が利用されていると薄代表は説明してくれた。レストランには野菜直売所も併設されており、とれたてのオーガニック野菜が数多く並んでいた。
飼料原料を自家生産し、安全安心の飼料で育てられたこだわりの「むなかた牛」。その牛のふんで作られた安全安心の堆肥を薄代表はつくっている。その堆肥を使ってご夫妻はこだわりのオーガニックの野菜を栽培している。育てられた野菜は「むなかた牛」とともに調理され、お客に提供される。薄代表のこだわりとこのレストランを営むご夫婦のこだわりは、この地域の中でお互いに結ばれ、至極の料理として消費者に提供される。薄代表の将来への夢と自信を垣間見た。
食肉卸売市場で食肉製造の過程を学ぶ
17日午前の研修カリキュラムは、福岡市中央卸売市場の食肉市場見学。研修参加者は食肉卸売市場でおこなわれる「牛・豚の集荷」「と畜解体」「セリ(価格形成)」「加工・搬出」という食肉製造の過程を学んだ。筆者は食肉市場見学には同行できなかったので参加者に感想を聞いた。前日まで行ってきた飼育管理の中で愛着を感じるようになった牛たちが、肉牛として出荷され、解体、販売される過程を目前にしたことで、一様に「畜産業に対する認識を新たにし、生き物をいただくことのありがたさを実感した」と語ってくれた。牛の飼育に多くの人が介在し、さまざまな過程を経た上で、おいしい「お肉」となって食卓に並んでいることを参加者は身をもって学んだようだ。
生産管理業務、事務作業も体験
食肉市場見学から戻り、午後からは生産管理業務を体験した。研修参加者は、職員から丁寧な指導を受けながら、出荷のための情報をまとめてデータ入力する補助作業や、ふるさと納税の返礼品として発送される際に同封する折り込みの案内状をまとめる作業を行った。身体を使った飼育業務から一変して、オフィスの中で、真剣に事務作業に取り組んでいた。研修を担当する職員の奈木野光治さんは「この業務を経験して、牛の生産から出荷、加工までの一連の現場での流れを見てもらったことになります」と筆者に説明してくれた。
牛の飼育管理業務を任される
翌18日9時半にすすき牧場に到着。時おり雪が舞い、昨日以上に寒さが厳しく感じる朝だった。すでに3人の研修参加者はそれぞれ担当する牛舎に分かれ、飼育業務を開始しているという。筆者も無塵(むじん)衣と長靴を身に着け、手洗いと消毒の後、牛舎に向かった。どの牛舎も、長さ100m以上はあると思われる通路を挟んでその両脇に牛房が並んでいる。牛舎を歩いて1周するだけでもかなりの時間を要する。研修参加者のNさん(男性)が、一人スコップで餌槽(じそう)に藁(わら)を運んでいた。飼育業務も4日目となりずいぶん慣れた様子だ。作業をしながら牛とコミュニケーションをしているようにも見える。その後Nさんは、牛房一つ一つを丁寧に回り、牛が飲む水を確認。ひしゃくで水を注いだり、ごみを除いたりする作業を行っていた。
次に参加者の大山早苗さんが担当する牛舎に向かう。大山さんは、餌槽から落ちた藁や飼料を竹ほうきで掃く作業をしていた。牛舎の長い通路のところどころに、大山さんがきれいに掃いた跡が残っている。「おはようございます」という気持ちのよいあいさつとともに「普段からトレーニングしているので大変ではないですが、いい汗をかきました」と話してくれた。
最後に参加者のNさん(女性)担当の牛舎に向かった。他の二人とは少し離れた牛舎で、スコップで飼料をかき混ぜる作業をしていた。「牛は他の牛が食べたところを食べたがらないので飼料をかき混ぜるそうです」と筆者に教えてくれた。Nさんの何倍も大きい牛が柵越しに一列に並んでいるその前で、腰を曲げながら飼料をスコップで持ち上げている。「とても大変な仕事です」と話してくれた。
ちょうどその時が午前の仕事の終了時間。Nさんと一緒に管理棟に戻ることにした。スコップやほうき、ひしゃくをひと抱えに、道具小屋に向かうNさん。道具を整頓した後、管理棟横の洗い場で、長靴を洗って消毒する。Nさんは「やりかたは知っていますか?」と声をかけてくれ、筆者が履いている長靴の洗い方、消毒の仕方を教えてくれた。研修参加者は皆、飼育業務で任された仕事に向き合いながら、牧場の牛たちと間近に接していた。
「むなかた牛」を育む地「宗像」を知る
午後からは課外研修が行われた。薄代表と職員の奈木野さんの先導で、研修参加者は「道の駅むなかた」「海の道むなかた館」「宗像大社(辺津宮)」を訪れた。「道の駅むなかた」は、九州地区で一、二を争う人気と九州最大級の売り上げを誇る道の駅として九州内外に知られている。玄界灘が育てた新鮮な海産物や宗像の豊かな自然と人の手で育てられた農産物、その他加工品やお総菜などが所狭しと並べられている。この日も多くの人がお目当ての商品を探しに道の駅を訪れていた。この道の駅にはすすき牧場の「むなかた牛」の販売コーナーもあり、ご当地宗像が育てたブランド牛として好評だ。参加者たちは、研修で関わった肉牛がどのように消費者に手にとられているかを自らの目で確認した。また、色とりどりの海・山の幸に囲まれて、「むなかた牛」になる牧場の牛たちもこれらと同様、宗像の自然の中で育てられていることを実感したようだ。
「海の道むなかた館」は宗像大社辺津宮に隣接し、世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群および宗像の歴史を学ぶことができる施設だ。「沖ノ島」は宗像市の沖合約60キロにあり、4世紀後半から島に宿る神に対しての祭祀(さいし)が行われてきた場所であり、今でも「神宿る島」としての信仰から立ち入ることができない場所だ。研修参加者は大型スクリーンで沖の島と古代祭祀遺跡を体感した。またこの施設には、宗像の文化財も展示されており、この中には、すすき牧場敷地内の古墳(相原古墳)から出土した土器もある。この土器の前で薄代表自ら、参加者に古墳や土器について説明してくれた。牛たちを育てる場所が古代にまでつながっていることを知り、参加者はとても驚いた様子だった。
そして最後に宗像大社辺津宮へ向かう。全国の宗像神社の総本宮とされる宗像大社。研修参加者は神妙な面持ちで皆静かに参拝した。1週間の牧場研修もまもなくフィナーレを迎える。この経験の先にある将来像を頭に描きながら、手を合わせたように見えた。
地元「森林を守る会」メンバーと「むなかた牛」を食す
課外研修から戻った研修参加者は、地元「森林を守る会」との懇親会に向けて、メンバーと一緒に準備を始めた。森林を守る会のメンバーは、竹害対策で伐採した竹を活用して竹灯籠(たけどうろう)づくりを行ったり、宗像国際環境会議の活動の一環で竹漁礁を作ったりしている。また、収益事業としてメンマづくりもおこなっているそうだ。今回の懇親会のために用意してくれたたくさんの手作り竹灯籠を、すすき牧場敷地内の広場にみんなでセッティングした。日が暮れかけた頃を見計らい、灯籠に火が入った。キャンプファイヤーの火と数多くの竹灯籠の明かりが宗像を包む暗闇に神秘的に映る。かたわらで、「むなかた牛」のことを最も知る人物である薄代表自らが肉を切って焼いていく。
皆が今か今かと肉が焼きあがるのを待っている。いよいよ「むなかた牛」の登場だ。研修参加者をはじめ全員が焼きあがったお肉を一緒に頬張る。筆者もご相伴にあずかった。お肉の旨味が後から後から出てくる。それでいて脂っこさがない。とてもおいしいお肉だ。「本当においしい!」「何枚もいける!」そんな声があちこちから聞こえた。3人の研修参加者も満足そうにお肉を口にしていた。
およそ1週間の研修で牛の飼育を経験し、入荷と出荷、牛がと畜・加工される現場も見た。そして最後にお肉をおいしくいただいた。本当の意味での今回の畜産業の研修は、この瞬間をもって終わりとなったと言えるのではないだろうか。
肉を焼き続けていた薄代表もみんなの輪に戻って、研修参加者や森林の会メンバーと一緒にお肉を食べている。日が暮れて寒さはますます厳しくなるが、キャンプファイヤーの炎と竹灯籠の明かりの下で研修参加者と宗像に生きる人たちとの話は尽きないようだ。
生き物をいただくことのありがたさ・大切さを実感する
3人の参加者に今回の研修に参加した経緯や今後の展望などを聞いた。
匿名希望Nさん(奈良県在住、36歳、女性)
―プログラムへの参加のきっかけを教えてください。
これまで有機農業などの研修に参加してきました。畜産にも興味があり、将来の自分がやりたい農業に「牛」を加えることができるかどうか経験してみたいと思い応募しました。
―実際に現地で参加してみて、いかがでしょうか?
牛はとても大きく初日は怖かったですが、2日目には愛着が湧きました。牛舎での仕事をする中で自然と牛と触れ合っていました。においに耐えられるか心配でしたが、作業をしていると忘れてしまいます。牛がたべるえさの量はとても多く、それをかき混ぜる作業はかなりの体力仕事です。一方、食肉市場では命をいただくことの大切さを目の当たりにしました。もし将来自分に子どもができたら、こういう現場を見せたいと思いました。また現場を知ることで動物を扱う責任も感じました。
―これからやっていきたいこと、展開していきたい方向性は?
私も畑を持って、作物を自然栽培するなど「農」のある生活をしたいです。
匿名希望Nさん(神奈川県在住、40代、男性)
―プログラムへの参加のきっかけを教えてください。
これまで都会に住んできましたが、いずれ地方移住したいと思っています。そのような中で畜産業を経験してみたいと思いました。
―実際に現地で参加してみて、いかがでしょうか?
生き物相手の仕事は大変です。牛が牧場に到着したときの受け入れ作業や追い込みが印象に残っています。今日は食肉加工の現場を見てきました。複雑な心境ですが、肉をいただいているありがたみを感じ、もっと味わい、食と向き合わなければいけないと思いました。
―これからやっていきたいこと、展開していきたい方向性は?
「農泊」を運営したいと思っています。ヤギや馬、牛など草食動物を飼育しながら、宿泊者に癒しを与えたいです。
大山早苗さん(東京都在住、48歳、女性)
―プログラムへの参加のきっかけを教えてください。
東京で育ち、東京で仕事をしてきました。その後、もともと興味があった農業と酪農を経験したことで、残りの人生、農業や畜産に関わることをライフワークにしたいと考えました。そのようなときに、今回の研修を紹介されて参加しました。
―実際に現地で参加してみて、いかがでしょうか?
昨日までは身体を使って牛の世話をしてきました。とても楽しく、牛も可愛く癒される仕事だと思ってきましたが、今日、食肉市場見学に行ってから、違った思いが出てきて、お肉をいただくことをありがたく思いました。牧場が愛情込めて育てた牛たちが食肉市場に運ばれる最後の過程まで、できるだけ牛にストレスを与えないようにしていただきたいと思いました。
―これからやっていきたいこと、展開していきたい方向性は?
自分自身で農家経営をして、動物に触れ合いながら、様々な理由で会社や社会で生きづらさやストレスを抱える人たちが、一緒に伸び伸びと働ける環境をつくるのが夢です。今後は農地を取得や重機の勉強もする予定です。
(了)