長崎県平戸市は、九州本土の西北端の一部と平戸瀬戸を隔てて南北に細長く横たわっている平戸島、さらにはその周辺に点在する大小およそ40の島々から構成される。市役所のある平戸地区は、肥前平戸藩松浦家の城下町で、戦国時代には中国やオランダ、ポルトガルとの交易の拠点として栄えていた。市域は235平方キロと東京23区の3分の1程度の広さながら、市内では漁業はもちろん、イチゴ、アスパラガス、馬鈴薯(ばれいしょ)、タマネギ、水稲などの栽培のほか、黒毛和牛「平戸牛」の飼育など多彩な一次産業が行われている。
この地で2022年3月、日本航空(JAL)が地域貢献事業の一環として進める短期農業研修「JAL農業留学2021」が実施された。この研修の特徴は、就農を考える人を地域ぐるみで迎え入れようという、お試しよりも一歩進んだ「本気度」と、コロナ禍で広がった「新しい働き方」に合わせ、別の仕事をしながら農業に取り組む「半農半X(エックス)」の可能性を見据えている点だ。
研修は13泊14日と丸々2週間設定され、「数日休みを取って」という軽い気持ちで参加できる日程ではない。その代わりスケジュールは、原則として午前中だけが研修となっており、ほとんどの日の午後は自由時間になっている。つまり半日を農業に費やし、残りの半日を別の仕事の時間にあてることもできる。実際、研修参加者の中には自由時間の午後に本業をリモートでこなす人もおり、「半農半X」を研修期間中に実現させていた。
地域ぐるみで新規就農者受け入れを推進
日本全体で少子高齢化が進む中、平戸市でも農業漁業の担い手不足は深刻化している。平戸市の場合、単純に移住者を求めているわけではなく、新規就農者を含めた若い農業の担い手に農地を集積し、より効率的で「稼げる」農業に変えることを目指している。そのため、市は「地域の新規就農サポート宣言」を行い、本気で就農を目指す人をターゲットに、受け入れ活動を展開している。
就農相談会、移住相談会をオンライン形式も含めて実施して希望者を募るだけでなく、地域の農業関係機関で組織する平戸市営農総合指導チーム会に「担い手支援班」を設け、就農希望者や新規就農者のサポートを実施する体制を整えている。今回の「JAL農業留学」で2週間の長期研修メニューが組み立てられたのも、地域の支援組織が整備されているからこそだと言える。
また、新規就農者への市の支援も手厚く、就農計画が認定されると農業大学校などで2カ月の基礎研修を受講した後、県内の先進農家のもとで10カ月のマンツーマン研修を受け、実践的な農業技術の習得ができる。しかも、研修期間中の生活安定のため、年150万円の助成を受けられる。さらに条件を満たせば、経営開始支援事業補助金が最大2年間、年240万円の範囲内で受け取ることもできる。もちろん金銭的な面だけでなく、担い手支援班が安定した農業経営が続けられるようにさまざまな相談に応じてくれる体制が整えられているので、新規就農者が孤立して悩むようなことはない。
半日でもハードな研修日程
今回の研修参加者は14人で、全員が首都圏在住だった。
初日午前に羽田空港に集合すると、航空機で福岡空港に飛び、そこからバスで平戸市まで移動。午後は平戸市の農業、観光の概況説明や地域での生活ルールなどのオリエンテーションを実施した。2日目は座学で農業の基本を学んだ後、地域を知ることを目的に平戸の郷土料理の定番「押し寿司」を地域の人たちと作るという体験も用意されていた。
しかし、3日目は田畑を整備するための草刈り、野焼き、トラクター運転といった「基礎編」、4日目は野菜の植え付け、畑作業といった「実践編」の農業体験メニューが組まれ、参加者全員が体を動かして農業の厳しさを知ることになった。
5日目は、平戸島南部の早福港から遊漁船に乗り、一本釣り漁業も体験した。平戸島の北側には対馬海流が流れ、市を囲む海域は豊富な海産物に恵まれている。釣り場としても人気が高く、遠く本州からも釣り人が訪れるほどだ。
6日目は農業体験に戻り、大根を収穫して切干大根を作ったり、味噌づくりに取り組んだりと、農家の生活の一端を経験した。
6次産業化で「稼げる」農業の方向性模索
農業研修の多くは日程も短く、座学と見学が中心で、農業の実地体験は研修後半の数日というケースが少なくない。しかし、「JAL農業留学」は2週間という十分な期間を取っていることもあり、前半から実地体験を入れ、農業の楽しさだけでなく厳しさも知ってもらうという構成になっていた。
7日目は土曜日で、世界遺産に認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の中で平戸市に存在する文化遺産を回る観光ツアーが組まれ、8日目の日曜日は初めて全日がオフとなった。
第2週に入った9日目は野菜の植え付け体験と実施研修で、10日目は平戸牛を飼育する農家で牛舎管理の体験が行われた。
11日目は平戸島南端の宮之浦漁港で、宮之浦平戸漁協組合長の講話を聞くとともに、漁港を見学、12日目はハウス栽培のイチゴ、アスパラガスの農家を見学した。農業で安定した収入を得るためには、収穫物を育てて出荷するだけでなく、一次産品を産地で商品化し、付加価値を付ける6次産業化が必要だが、平戸市では多くの漁業者、農業者が6次産業化を模索しており、研修参加者にも「稼げる」農業に向けてのヒントが多くあったようだ。
記念植樹に思いを託す
13日目は研修の思い出作りの一環として、記念植樹が行われた。
植樹の場所は、3日目に研修参加者が自ら草刈りと野焼きを行った場所で、そこに参加者一人一人が1本ずつ植樹をした。木を支えるくい打ちも参加者がそれぞれ行い、結構な重労働だが、これまで10日以上の農業体験をしてきただけあって、作業はてきぱきと進み、ごく短時間で植樹は終わった。
最終日の14日目は、午前中に平戸市が直面する地域課題についてのワークショップが開かれ、参加者にとっては2週間の研修で得たものや、今後の生き方についても話し合えるアウトプットの場となった。午後にはバスで福岡空港に向かい、羽田空港で午後7時近くに解散となった。
大半は午前中だけとは言え、研修メニューは極めて濃密だったが、参加者のほとんどに本気で就農を目指す志があったため、それだけの成果を得ることができたようだった。
テレワークと農業の2本立てを検討
参加者のうち2人に今回の研修に参加した経緯や今後の展望などを聞いた。
平松忠志さん(東京都在住、37歳)
―プログラムへの参加のきっかけを教えてください。
実は両親が平戸の出身で、父方、母方とも実家が空き家になっています。どちらかに住んで、平戸で農業ができたらいいなと考えて参加しました。
―実際に現地で参加してみて、いかがでしょうか?
これまで農作業をしたことがなかったので、実際に体験して、農機具を扱ったり、地元の方とお話ができたりと、有意義に過ごせました。
―これからやっていきたいこと、展開していきたい方向性は?
平戸で就農することを考えています。現在、テレビ制作会社に勤めていますが、リモートの仕事も多いので、今回の研修中も午後の自由時間にテレワークをしていました。就農する場合も、テレワークでの仕事もしながら、ということを前提に考えています。
横矢清華さん(東京都在住、42歳)
―プログラムへの参加のきっかけを教えてください。
もともと農業に興味があったので、ネットで調べているうちに今回のJALさんの事業に行き当たって応募しました。
―実際に現地で参加してみて、いかがでしょうか?
研修は原則午前中で終了だったのですが、やめられなくて午後も作業を続けたくらい楽しかったです。
―これからやっていきたいこと、展開していきたい方向性は?
平戸には、ここに移住してこよう、農業を始めようと考える人たちをとても熱心に応援してくれる気持ちがあることがよく分かりました。これまで平戸には縁もゆかりもありませんでしたが、(移住先として)選択肢になると考えています。
(了)