神奈川県平塚市は県の中央を流れる相模川の西側に位置し、東京から南西に約60キロの距離にある。人口は約26万人(2024〈令和6〉年1月)。江戸時代は東海道五十三次の宿場町として栄え、1951(昭和26)年に始まった七夕まつりは平塚大空襲の復興祭りが起源と言われ、毎年300万人を超える来場者がある。産業は自動車関連の工業、県内トップクラスの生産高のコメや多品種の野菜栽培、アジやイワシの定置網漁業―などが盛ん。 市内の農園などで有機農業や6次産業化を学ぶ「農ライファーズ」主催の現地研修を取材した。研修は23(令和5)年の12月8日~10日までの3日間で、8人(男性5人、女性3人)が参加。有機農業の専門家などから野菜の栽培や販売戦略、加工品作りを学び、農Xの展開を模索した。
オリエンテーション
研修生はまず受け入れ先の株式会社「いかす」の本部で自己紹介を行った後、同社代表取締役の白土卓志さんと取締役で農業リーダーの内田達也さんから活動の説明を受けた。 いかす社は白土さんが2015(平成27)年に創業し、有機農業を通じた社会貢献活動に取り組んでいる。白土さんは湘南オーガニック協議会の会長を務め、内田さんは無肥料・無農薬の野菜作りの入門書を出版。「オーガニック・エコフェスタ2022」(一般社団法人日本有機農業普及協会主催)ではキャベツ部門で最優秀賞を受賞するなど、同社は湘南地域の有機農業のリーダー的存在である。 白土さんによると、1ヘクタールから始めた農園は耕作放棄地を受け入れながら徐々に大きくなり、現在は平塚市と隣の大磯町で計7ヘクタールを有する県下最大の有機栽培の農場になった。野菜の宅配事業を始め、オーガニック野菜の栽培技術を学べるスクールも運営している。有機ミニトマトのジュースやオーガニックの乾燥野菜などの加工品もネット販売のほか、地元スーパーに出荷している。
農場見学 技術講義
いかすの農業への向き合い方を知る
続いて内田さんの案内で農機具や農場を見学しながら同社の有機農業への取り組みを学んだ。農機具置き場ではサツマイモのつるを切るなど役割が明確な機具の説明を受けた。
同社本部周辺を含め平塚地域では、のり面(切り土や盛り土で造成)のある畑が多い。内田さんによれば、「のり面のある畑は草刈りなどに労力がかかり生産性が低いが、平塚は消費地が近いので単価を高く設定できる立地環境にある」という。
次に移動したブルーベリー畑では、土壌の成分や改良の方法について聞いた。日本の土はマグネシウムやカルシウム、カリウムが9割を占め、アルミが多く腐食しにくい。平塚の土壌は火山灰土だという。 土壌の改良については、「堆肥などその土地に合った肥料を与え、緑肥(肥料となる新鮮な緑色植物)をすきこんで土壌化し発酵を促進。これを繰り返す。土の匂いも変わる」(内田さん)と説明。掘った土の匂いを嗅いだ研修生から「同じ畑でも場所で土の匂いが違う」「キノコの匂いがする(※放線菌の匂い)」などの声が上がった。
農場見学後は、座学で「いかす」の有機栽培の技術について講義を受けた。 内田さんは同社が掲げる目標について「どうしたらオーガニックの作物栽培で病害虫にやられずに『きれいで おいしく たくさん 収穫できるか?』を基本に取り組んできた」と語り、「栽培する作物がどこから来たのか。平塚でどう作ればよいのかを絶えず考えている」と作物に向き合う姿勢を伝えた。 有機栽培には難しい点が3点あり、それぞれの対策を一緒に実行すれば作物は病気にならない。その3点とは、①主因(病原菌や害虫の存在)を取り除く②素因(病害虫に侵されやすい作物の性質)を体質強化などで小さくする③誘因(病害虫の発生に好適な環境)が発生しにくい環境を作るーことだという。内田さんは「各点でどれだけ手を打ち、工夫するかが面白いところ」と有機栽培の魅力を明かし、「農法に関係なく栽培の継続が病害虫を抑える耕地生態系を育てる」と解説した。
農家研修
卒業生の活躍
野菜販売 鶏卵 カフェ運営
いかす社は自然栽培や有機農業の知識や技術を伝える「サステナブル・アグリカルチャー・スクール」を開校しており、農家研修では同スクールの1期生である末永郁(かおる)さんの農場を訪ねた。平塚市と大磯町で自分の農場を持ち、ホウレンソウやカボチャなど40~50種類の無農薬野菜を栽培している。スーパーへ出荷するほか二宮町のカフェ「のうてんき」で直売し、配達もしている。 末永さんは、「オーガニック野菜は他の野菜と差別化できるので需要がある。売り先あっての農業なので商品を切らさないよう多品種を1人で栽培、販売している。畑は脇の道路が広いと作業車が入りやすい。立地条件が大事」とアドバイスした。
カフェ「のうてんき」は、末永さんと川尻哲郎さん、永田裕子さんの3人で経営し、オーガニック料理を提供するほか、無農薬野菜と鶏卵の販売をしている。 永田さんは、「末永さんの野菜を使ったオーガニック料理を提供しています。お客さんから安心しておいしい料理が食べられると言ってもらえてうれしい」と話す。店内には末永さんの無農薬野菜の販売コーナーがあり、「湘南はオーガニック熱が高いです」と末永さん。取材中もお客さんがひっきりなしに買い求めに来ていた。
続いて川尻さんが経営する大磯町の養鶏場「コッコパラダイス」へ移動し、話を伺った。600坪の広さで約500羽を平飼い。地面で放し飼いする平飼いは、鶏の密度が小さいのでストレスが軽減される。餌は給食センター提供の無農薬の米ぬか(無償)に連携している地元酒造会社のビールの搾りかす(同)を混ぜて与えている。 川尻さんは「餌はオーガニックなので鶏の成長が早い。鶏卵はのうてんきでよく売れ、ケーキ屋やパン屋にも卸しており、ビジネスとして養鶏はいい。餌の回収ルートを押さえられるので始めるならその地域で最初にやるべきだ」とアドバイスした。脇の畑でハーブも栽培しており、売り上げが伸びているという。
オレの胡椒
手作りでオリジナル商品を
茅ケ崎市の有機栽培農家のマイケル・A・フォーリンさんもサステナブル・アグリカルチャー・スクールの卒業生。無農薬のトウガラシと地産のミカン、レモンなどで「オレの胡椒」を作り、茅ケ崎市内で販売している。 イギリス人のマイケルさんは、日本に住んで47年。友禅染職人などで働いたが東京での生活でストレスがたまり、「海があり故郷のリバプールに似ている」茅ケ崎市に引っ越した。63歳の時にいかすで1年の研修を経て農家に。 マイケルさんは「農家で大事なことは頭が良いこと、健康、3キロ以内に売り先を持つこと。そして一人でなんでもできること(他に頼むと費用が発生)」と研修生に就農のポイントを伝授した。振る舞われたカブは「こんなにおいしいカブは食べたことがない」と大好評。
フランス料理店でいかすの野菜を味わう
JR平塚駅近くのフランス料理店「アッシュ×エム」は、地産のオーガニック食材を使った料理を提供している。同店で昼食を兼ね、いかすの有機野菜がどう調理されているかを見学。当日のランチではマダイのポアレの付け合わせに春菊が使われた。シェフの幸野真也さんは同社の野菜について「嫌なものを取り除いて栽培しているので野菜が元気で味が新鮮。素材を大事にどうおいしく作るかを考えています」と語る。「アッシュ×エムで使ってもらえることの意味は大きいです」と白土さん。
ジャガイモの収穫
農作業体験は、本部近くの畑でジャガイモを収穫。品種はレッドムーン、きたあかりの2種。マルチシート(畝を覆う資材で地温調節や雑草抑制などの効果がある)の回収後、内田さんがトラクターで地面を掘り起こし、顔を出したジャガイモを採っていく。「今年はマルチシートを使ったが、気温が高くジャガイモが腐りやすいので来年からは敷きません」(内田さん) ジャガイモは出荷用と来年の種芋用(50グラム以下)に仕分けする。「投げ入れると傷が付いて腐るので丁寧に入れてください」との指示通り研修生は作物を大切に取り扱っていた。 「土まみれになってうれしい」「ジャガイモ掘りは初めて。おいしそう」「腰にきますが、この作業は何か根源的なものを感じる」と取り組んだこの日の収穫量は、レッドムーンは40キログラム、きたあかりは200キログラムに上った。
研修を振り返る
すべてのメニューを終え3日間を振り返った。研修生からは「何をするか分かってきた」「土のことを学べてよかった」「6次化ではマイケルさんの話が参考になった」「農Xは自分のフィールドを持つのが第一歩だと感じた」「農業は科学でできている」「平塚は温暖。ここで農業をやりたい」などの意見が出た。 白土さんは「点が線になり面になる。それが人生の面白みだと思う」、内田さんは「1人でやる農業はきつく難しい。これからはチームでやる時代。共通言語で話せる仲間を作ってほしい」とそれぞれ研修の意味を伝えた。 最後に農ライファーズの担当者の久保田龍星さんが「多くの人と調整し、この研修を手作りした。皆さんもコミュニケーションを取り仲間を作ってほしい」とエールを送り、研修を終えた。
研修生に聞く
- 研修に参加した経緯を教えてください
小杉 厚貴さん 山梨県在住
―勤務先の農場の体制が来年大きく変化するので独立することにした。農でビジネスをどう起こしていくかが不明で情報を探していたところ、今回の研修を知り参加した。
柿添 孝太さん 熊本県在住
―農に携わる人と会っていろいろな価値観や考え方に触れ、自分の目指す農との関わり方を形にしたいと思い参加した。農業法人で作物の栽培を担当しているが、農全体の幅広い視点で自分が実現したいことを見直し、独立して農業で生きていける力を身に付けたいと思った。
キトウ メグミさん 埼玉県在住
―埼玉から北海道へ 農業移住する。小規模農家を目指し、 トマト農家になるための研修を受けている。これからの農業はさまざまな点で厳しいが、課題に負けない強さと戦略を持ちたい。どのような戦略を持てばよいのかその答えを求めて参加した。
- 研修に参加した印象はいかがですか?
小杉さん
―大変ためになった。農業だけでなく農作物の加工や6次化など先駆者の方々の話を聞き、今後の自分のビジネスの方向性を定められたことが一番の収穫。また、研修を通してフェーズは違っても農に興味がありこれから何かしたいという思いを持つ仲間ができとても心強かった。
柿添さん
―刺激的な時間を過ごさせてもらった。さまざまな話の中で学びや気付きが多くとても楽しく、研修メンバーともお互いに応援し合う関係が築けている。吸収したことを自分が実現したいことと重ね合わせ、何回も口にする中で具体性が増し形になっていくのでとてもワクワクしている。
キトウさん
―自分ができることしか考えていなかったと感じた。もっといろいろな可能性を考え自分のやりたいことを言葉にし、自分の人生をデザインしていきたいと思った。
- 今後の展開について
小杉さん
―来年から独立し就農するのでその事業計画に盛り込む。(この研修を総括する)1月の最終発表後には動き出す。同じ研修を受けた仲間や他の期の人たちの参考になるよう1年目から頑張りたい。
柿添さん
―「畑×八百屋」をやりたい。自分の住む地域の農や食について自分事として考えられるきっかけが生まれる場、価値を見出し形にする人が増える場を畑で実現できないかと思い、このアイデアにたどり着いた。登山が好きで、山での体に染みるおいしい食事を薬膳の観点を添えて栽培の現場から提供したい。
キトウさん
―市場に出ない規格外野菜を地域資源として長期保存加工し、当地ならではの防災食が作れないかと考えている。地域の資源やつながりを活用し課題解決の一翼を担うプレーヤーになることを目指し、これから農的暮らしを実践していきたい。
(了)