
尾鷲市の海と山、街並みを一望(市内向井地区より)

尾鷲の総鎮守 尾鷲神社 奇祭「ヤーヤ祭り」が有名

三重県立熊野古道センター 「尾鷲ヒノキ」を使用して建築された
三重県尾鷲市は県の南部に位置し、太平洋(熊野灘)に面している。人口は15524人(2024〈令和6〉年12月)。沖合を流れる黒潮の影響で年間の平均気温は16.4度、降水量は4000ミリで年間降水量が日本一になることがあり、「尾鷲の雨は下から降る」と言われるほど一度に大量の雨が降ることで知られる。
温暖多雨の気候により農林水産業が発達した。江戸時代から林業の町として栄え、年輪が密で強靭(きょうじん)な「尾鷲ヒノキ」は日本農業遺産に認定されている。尾鷲港はリアス式海岸による天然の良港。全国有数のカツオやブリ、マハタの水揚げなど水産業も発達している。世界遺産に登録された熊野古道は伊勢神宮と熊野三山を結び、観光資源も豊富だ。
同市で行われたNPO法人「G-net」が一般社団法人「つちからみのれ」と連携して運営する「ふるさと兼業越境研修プログラム “さとやま越境シェアプロ”」のフィールドワークを取材した。研修は2024(令和6)年の12月15~17日までの3日間で、3人(男性2人、女性1人)が参加。市内の火力発電所撤退に伴い地域の暮らしや魅力を後世に残すため事業転換した地元企業の経営改革をテーマに、耕作放棄地を活用した農園やオフグリッドキャンプ場など既存事業の現地見学、未活用の山林エリアの視察と魅力の体感、山林エリアを活用した森林サービス事業など新事業プランについての意見交換、伝統野菜を栽培する地元農家や地域企業に勤める者、Iターンの地域おこし協力隊など同社を支援する多様な地元住民との交流を通じて、尾鷲市の持つさまざまな魅力と暮らしを体感。事業転換に挑戦する現地受け入れ企業の思いや目指す方向性をより深く理解し、課題解決に向け協議した。
「尾鷲ヤードサービス」 「つちからみのれ」
尾鷲ヤードサービス株式会社の挑戦
研修の受け入れ先である尾鷲ヤードサービス株式会社は、もともとは市内にあった中部電力尾鷲三田火力発電所の施設のメンテナンスなどを行う下請け会社だったが、2018(平成30)年に発電所が火力発電事業から撤退を決めたことから、同社は事業転換を図って地域にとどまることを決断した。「鉄から土へ」をスローガンに掲げ「おわせむかい農園」を設立し、地域の里山の風景を後世に残そうと甘夏みかん農園の復活や伝統野菜「虎の尾」(青トウガラシ)の継承と商品化、耕作放棄地を活用したオフグリッド(電気・水道などの既存インフラと未接続)キャンプ場の開設、休耕田を活用した生物多様性保全、森林空間の活用・保全などの事業を推進し、産業構造が変革した街でのゼロからの業態転換に挑戦している。同社の岡文彦代表取締役は「研修生と共にこの大きな挑戦に本気で挑戦したい」と熱い思いを伝えた。

研修拠点の「おわせむかい農園」

オフグリッドキャンプ場にあるインスタントハウス 尾鷲の港と山々を一望できる
「つちからみのれ」の活動
地域コーディネーターの一般社団法人「つちからみのれ」は、火力発電所の撤退に伴い脱炭素社会への移行最前線となったこの街から新しい未来を作っていこうと設立された。日本財団「子どもの第三の居場所」事業の助成を受け開設した多世代の居場所「むむむ。」の運営や企業研修の受け入れ、副業・兼業マッチングなどの外部人材を活用しながら、尾鷲市のトランジション(転換)の象徴である尾鷲ヤードサービス株式会社と共にこの街からトランジションモデルを作ろうと活動している。
創設者の伊東将司さんは尾鷲市出身で、「火力発電所の撤退は国内でもおそらく前例がない。これをポジティブに捉え、地域再生の先進事例を作りたい。尾鷲が好きだから街に残したいものを残していきたい」と熱く語る。横浜市出身の日向(ひなた)風花さんは、大学在学中に尾鷲市へ地域おこし協力隊として赴任し、任期終了後は「つちからみのれ」の理事として活動している。日向さんは「自然が好きで地域活性化に興味があり、在学中にインターン募集サイトで伊東さんと知り合い、話した際に直感で尾鷲市の魅力と面白さ、そして可能性を感じました。コロナ禍であったので、オンラインで在学しながら尾鷲市に住み込んで活動をすると決めました。この越境研修は人生を変え豊かにすると思います」と笑顔で話した。

伊東さん(左)と日向さん 多世代の居場所「むむむ。」で
尾鷲ヤードサービスを支援する地元住民と交流
研修生は最初に尾鷲ヤードサービスを応援する地元住民と顔合わせを行い、交流を開始。自己紹介の後、キャンプ場がある甘夏みかん農園に全員で移動し、それぞれ農具を手に持って同社の宣伝用の写真撮影を行った。

尾鷲ヤードサービスの笠松千恵子取締役(右手前)が最初に研修の趣旨を説明

関係者全員で写真撮影 尾鷲ヤードサービスの宣伝用に使用される
尾鷲ヒノキの山林エリアを見学 事業の可能性を検討
尾鷲市は面積の90%以上が山林で、造林の大半をヒノキが占めている。土壌と温暖多雨の気候がヒノキの生育に適し、造林は江戸時代より続いている。密植の方法により年輪が緻密で光沢が良く、関東大震災では強靭性が実証されるなど、「尾鷲ヒノキ」の評価は高い。
尾鷲ヤードサービスは、現在運営するオフグリッドキャンプ場に加え尾鷲ヒノキの森を活用した森林サービス事業も立ち上げたいと計画している。研修生は尾鷲ヒノキの森の空間を見学し、岡社長などから説明を聞き現状を確認した。

山林へのアプローチを徒歩で確認

岡社長(左)所有のヒノキ林の状況を確認し活用プランを練る(つちからみのれ提供)
地元住民との交流 森林エリアの魅力を肌で体感
夜に行われた地元住民との懇親会では、地域で古くから伝統野菜の栽培などを行う農家や地域企業に勤務する人、尾鷲市の農業分野の地域おこし協力隊、Iターン・Uターンの移住者ら地元住民と交流を深めた。受け入れ企業と地域との結び付きの強さに直に触れ、地域の暮らしを知る良い機会となった。研修生からは「支援者が多いですね。尾鷲ヤードサービスへの熱い期待を感じます」との声が上がった。
懇親会の後、研修生は「おわせむかい農園」近くの温浴施設「夢古道の湯」で入浴した。全国でも珍しい海洋深層水を使った湯でミネラルが豊富。体を温めた後、山林エリアの自然の魅力を体感するため、岡社長、笠松取締役と共にテントを張って宿泊した。
尾鷲ヒノキの山林エリアを活用した森林サービス事業について討議
これまでの見学や体験、学習した内容をベースに研修2日目から最終日まで新事業に向け、計3回の討議を行った。尾鷲ヤードサービスのこれまでの歩みを振り返りながら岡社長の思いや方向性を確認し、未活用の山林の活用プランを模索した。
〈以下は主な意見交換の内容〉
尾鷲ヤードサービス(岡社長、笠松取締役)
―山林でのテント泊はいい体験だった。風もなくヒノキ林の間から見える星や月は最高だった。たき火もいい。この森に唯一無二の魅力的な空間を作りたい。あえて便利な備品は持ち込まず、自然の中で過ごすことを最優先にした宿泊施設を作りたい。
つちからみのれ(伊東さん、日向理事)
―尾鷲市は都市部から遠いため、ここが目的地になるような強い魅力があるものを作れたらいいと思う。他と差別化できるところは誰にも会わない山林の空間ではないか。地産の料理で何が喜ばれるかも確認したい。サービス内容が固まってきたら、販売サイトへのアプローチや価格設定も研究しよう。
研修生の皆さん
―夜の森は以外と静かで風が無かった。山林でのテント泊は活用プランを考える上で貴重な原体験になった。風や川の音、動物や鳥の声など五感を大事にしたい。プライベート空間を作り、一度入ると出たくないような施設を作りたい。(施設を)販売する際のターゲットを想定したい。万人受けするものは難しいと思う。ウッドデッキに張るテントは何がよいか研究が必要。まずは始め、やりながら客の希望を聞きサービスを育てていくのが良いのでは。

尾鷲の街を一望しながら討議する

これまでの活動を振り返りながら意見交換
最終日に研修を振り返り、研修生は新エリアの事業展開に向けて、研修期間終了後も引き続き関わりたいという気持ちを岡社長と笠松取締役へ伝えた。研修生から「初めて現場を視察して作りたい事業の内容が明確になった」「活動を続けていくうちに仲間意識が強くなった」などの感想が出た。つちからみのれの日向さんは、「この研修をきっかけに、この地域に外部の人の関わりが生まれたらとてもうれしい」と話し、研修を終えた。
研修生に聞く
山田 裕貴さん(45歳) 神奈川県在住
研修が終わった後にさらに自身に残っているものがあればと思う。
また勤務先の業務の一環で参加しているので、勤務先の会社に還元したい。
そのために情報発信し、自分の経験や成長の実感などを同僚に伝えていきたい。
千葉 英次朗さん(39歳) 愛知県在住
かねて地方の文化・伝統や自然を守ることに関心があり、また直近では本業を通じ、地方の活性化や技術・経済発展で失われつつある価値を守ることに携わりたいという思いがより一層強くなり応募した。
小規模の事業経営に携わり、経営判断の難しさを手触りでもって痛感した。
規模が小さいから簡単なわけでもいい加減でいいわけでもない。
逆に自分がいかに恵まれ安定した環境とインフラの上で仕事をしているかを実感し、感謝の気持ちが湧いてきた。また、自分が経験してきたことが生かせるケースが世の中にはいろいろありそうで自信につながっている。
地方の文化・伝統や自然を守ることに対して具体的なアクションを取っている方々が多く、刺激を受け勇気をもらっている。
自身の価値観を大切に仕事をしている方々の生き生きとした表情や熱意、頑張りを見て大企業でももっと個々人が自身の意思でしっかり価値観を擦り合わせ、生き生きと仕事をすべきだと感じた。人のために頑張りたいと思える人と仕事をするのが大事で、尾鷲ヤードサービスの方々の魅力が一番の動機付けになっていると思う。
小倉 悠希さん 名古屋市在住
地域の特定の中小企業に一定期間コミットし他企業の方とチームを組むことは初めてだったので、とてもワクワクした。
もともと自然環境の恵みと都市的な生活のつながりについて興味があり、火力発電所の撤退と尾鷲ヤードサービスの業態転換という状況は、エネルギーや経済面での自立的な地域のあり方など、知るべき要素がたくさんあると感じた。
この地域は自然の美しさや人の温かさ、おいしいものなど、日本の地域の原風景そのもの。この美しい地域を生かし、子どもも大人もいきいきと暮らしていける地域を目指していくことに関わることができ、その意義と未来にワクワクする気持ちを日々持つことができている。
また、尾鷲ヤードサービスや他の企業の方と連携する中で、自分が所属する企業とは日々の業務のスピード感や意思決定のあり方、企業文化が全く違うということを体感して知ることができた。自分のスキルも当たり前だと思っているものを客観視することができ、価値を見つめ直し、考え直すきっかけになっている。
プロジェクトも一つの区切りまではしっかりとコミットし、見届けたいという思いを他のメンバーと共に強く持っている。
「越境」による学びについては、日々の業務の中でも生かしていきたい。
社内外の人とのコミュニケーションでは、自分の当たり前ややりやすさを見直し、丁寧に問い掛け、聴いたりすることを忘れないようにしていきたい。

インタビューに協力してくれた研修生の皆さん ヒノキ林をバックに

キャンプ場からの尾鷲の夜景